ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第2節:福祉・社会活動

埼玉育児院

謹んで天下の志士仁人に訴ふ

本院は大正元年十月
明治天皇聖徳記念事業として明治聖代無前の偉績を万代に伝ふべく特に
明治天皇仁慈の聖徳と観音大悲の実現を期し本県唯一の救児事業として献身的努力の下に開設せられたものであります
爾来僅かに七周年余に過ぎませぬが大方慈善家の同情に依りまして組織を社団法人とし内務省奨励金及ひ県補助金郡補助金下付の光栄に浴し時々刻々発展の途に就きましたのは啻(ただ)に本院の為のみならず是等救済事業の為に感激に堪へぬ次第であります
凡そ救済事業中に於きましても諺にも『今日の子供は明日の大人』と申す通り此救児事業は社会組織の将来に取りまして最も有望で且つ最も有効のものでありまして単に人道の上のみならず広い世界から棄てられた是等孤児貧童を収容して適当なる機関の下に保護教育し健全なる発達を遂げしめ社会有用の者となすは一の防貧事業でありまして国家存立上最も大切なる事であり世界各国に於ても一番力を注いで居りまする
本院が敢て微力をも顧みず本県唯一の救児事業として努力施設致しまするのも要するに前述の見地が重なる刺激となって居る次第であります
切に佛天の冥助(めいじょ・みょうじょ)【目に見えない神仏の加護】と大方慈善家の眷顧(けんこ)【情けをかけること】とに依りまして永遠に本県内の孤児貧童を教養【教え育てること】して国家人類の為に至誠貢献せんことを思ふて止まないものであります
何卒奮って御援助の程を御願ひ致します
     埼玉県比企郡松山町箭弓社畔
           社団法人 埼玉育児院

沿革概要

大正元年(1912)十月現院父【小島乗眞】住職寺比企郡菅谷村安養寺内に設立、創立早々檀徒より寺産蕩尽(とうじん)の虞(おそ)れありとし極めて強硬なる反抗を受く
大正三年(1914)一月添田埼玉県知事より経費募集の公允(こういん)あり
仝年(1914)仝月地方に強烈なる麻疹の流行あり、最善の努力を尽したりと雖とも一時に多数の病児を生じ、遂に死亡児を出したる為め大打撃を受け更に檀徒の大迫害に逢ひ経営の困難其の絶頂に達し、一時同情者すら其存続を危ぶむに及べり
仝年(1914)十月添田知事の推薦により院父内務省主催感化救済事業講習会に出席
仝年(1914)九月以降、一般の不況は更に一大打撃となり経営再び困難を極め大正四年(1915)ノ賀儀を廃するの止むを得ざるに逢着す
仝年(1915)四月周囲の同情と内部の実績とは強く檀徒の心を動かし反抗の態度は豹変して深厚なる同情を寄するに到り団体組織とするの議起り名を埼玉育児院と改む
仝年(1915)十一月唐子村定宗寺【八正山薬王院定宗寺】吉里常照師より額面金五拾円七分利付勧業債券一葉を寄付せらる
仝年(1915)十二月入間郡学友会頭発智庄平氏の紹介により院父親しく渋沢男爵に謁し委曲陳述する所あり快く将来の援助を約せらる
大正六年(1917)一月社団法人設立発起人会を院内に開催し発智氏始め郡内有力者全部設立発起人として弥々具体的組織の気運に到る
仝年(1917)九月菅谷村山岸章佑氏より厳父源吉氏の遺言により額面金拾円勧業債券一葉を寄付せらる
仝年(1917)十月東京小林ライオン歯磨本舗より仝年度ライオン歯磨慈善券分配金貳拾五円を寄付せらる
仝年(1917)十一月東京浅草寺より仝寺住職顧修多羅亮延師追善の為め金貳拾五円を寄付せらる
仝年(1917)十二月十六日現所在地【松山町箭弓社畔】へ移転大に事業の拡張を計る
大正七年(1918)二月二十三日内務大臣より社団法人設立を許可せらる
仝年(1918)五月十四日第一回社員総会開催名誉顧問渋沢男爵仝本県知事代成毛内務部長豊田地方課長臨席せらる
仝年(1918)六月二日本県庁より本年度事業費補助として金壱百円を下付せらる
仝年(1918)九月十二日名誉顧問本県知事岡田忠彦閣下の来院巡視あり
仝年(1918)十月東京小林ライオン歯磨本舗より本年度ライオン歯磨慈善券配分金参拾五円を寄付せらる
仝年(1918)十二月本郡唐子村荒井覚治氏より厳父瀧十郎氏追善の為め金貳拾円を寄贈せらる
仝年(1918)仝月生江内務省嘱託同村県嘱託来院視察せらる
大正八年(1919)一月武田比企郡長より郡費補助金壹百円下付の指令あり
仝年(1919)二月内務省より奨励金壹百円を下付せらる
仝年(1919)仝月東京帝国劇場に於て演芸会開催純益金二千余円を得て基本金に蓄積す
仝年(1919)三月天台宗務庁より本年度補助金貳拾円を下付せらる

『埼玉育児院要覧』1919年(大正8)
このページの先頭へ ▲