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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

遠山トンネル

遠山トンネルに学ぶその二

平凡な農山村が非凡な大工事を
            ——成功の原因は?

 天正十八年(1590)、秀吉が小田原の北条氏を討つたとき、松山を主城とする、郡内の諸城が、前田、上杉、真田等の連合軍の攻撃で全滅した。松山の支城小倉城が落ちたのもこの時と思われるが、城主遠山光景はその三年前天正十五年(1587)に没し遠山寺に葬つたと伝えている。遠山氏の出自はハツキリしないが、遠山を姓とし遺骸を遠山寺に葬ったというから多分遠山地区から出て小倉城に居りその付近を領有した地方の小豪族であつたと思われる。
小倉城陥落以来遠山の名は歴史の底に埋もれて表面には現われず、只、村の古記録に天正十八年より徳川氏の直轄となり、代官の支配に属したが、天保十四年(1843)、川越藩主松平大和守の采地となつて明治維新に至つたと記されているのみである。前回私は遠山を秩父山麓の名もなき小村と書いたが、当時の遠山村はまことに平凡な山間の小農村で如上の歴史を辿つても、近隣の村々と比べて、何等特異とする点を見出すことは出来ない。歴史の上に特異性を示さなかつたということは、この村が、地理的にも経済的にも特に恵まれたものを持つていなかつたことを物語るもので、どこまでも普通の並の農山村の域を脱しないのである。
 平凡な普通一般の小山村が非凡な、世間に比類のない大難工事をやつてのけたということになると、一体その原因はどこに求められるのだろうか。問題解決の手がかりとして、この工事を推進成就せしめた指導者の名を挙げれば、次の通りである。
 前号に述べたように「新道開設願」には、
 遠山村
  願人 山下滝治
  地主 山下吉三郎
  戸長 杉田啓三郎
 平沢村
  戸長 内田清右衛門
 千手堂村
  地主 吉野英吉
  戸長 関根茂平
と、六氏が名を連ねている。山下滝治氏は賢治氏の曽祖父、当時三十一才。地主山下吉三郎氏は清治氏の祖父三十四才。戸長の杉田啓三郎氏は覚太郎氏の曽祖父、五十才。子息百之助氏は、二十八才であつた。又、平沢の内田清右衛門氏は茂氏の祖父で四十四才。千手堂の地主吉野英吉氏は松造氏の祖父に当り、三十六才。関根茂平氏は茂良氏の祖父で三十七才であつた。いずれも各村の有力者であり、村政の中心勢力であり、郷党教化の徳望家であつた。私は遠山トンネル成功諸条件の中、最も有力な原因をこの人的関係に求めようと考える。一言にして述べれば、各村の指導者が、真に指導者としてその力を遺憾なく発揮したということ、即ち指導者に相応(ふさわ)しい行動に終始一貫したということである。具体的にその一例を挙げれば、総工費五百九拾七円三十六銭の中、地元遠山村では五拾六円四十銭、地元遠山村の有志三十一名で弐百七拾九円五銭の金額を拠出しているが、この有志の中
一金百五円    山下滝治
一金弐拾五円   杉田啓三郎
一金弐拾弐円   久留田与平
一金拾六円五十銭 山下五平
一金拾六円五十銭 小菅山文次郎
一金拾六円五十銭 山下武八
一金拾五円    杉田粂造
一金拾五円    久留田菊次郎
一金拾五円    山下繁造
と記録されている。有力者が夫々相応の寄附金をポンと出している。胸のすくような話である。(山下滝治氏は水車を経営しこの工事には、利害関係が深かつた。)私はこれを指導者に相応しい行動というのである。ケンケンガクガク【カンカンガクガク/ケンケンゴウゴウ】の議論もいい万人を感動させる熱意も必要だ。然しいざ金という段になるとプイツと横をむいて顔をそむける。こんな指導者では、いくら議論がよくても、熱意があつても、人がついて行かない。人々が納得しない。この寄附金は一例にすぎない。おそらく全工事を通じて、この指導者の人達は指導者としての名誉あるぎせいを惜しまなかつたにちがいない。これがこの工事を成功せしめた最も有力な原因であると考えられるのである。かくて私はこの様な指導者の存在を否定し去つた戦後の社会変革を悲しいことと考えるのである。(小林)

『菅谷村報道』50号 1954年(昭和29)9月25日
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