ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

小川・菅谷・玉川 三町村 連絡の焦点

谷川橋完成 五月三十一日祝賀会

完成した谷川橋|写真

本村の遠山と、玉川村の小倉境界、槻川上に、村道の谷川橋が出来上り、五月三十一日、その竣工式が行はれた。
この橋梁は、本村では昭和三十五年度から計画され、その後玉川村と共同施工することになつた結果、その位置や、規模等も変更になり、最後は東松山土木事務所の設計により、鉄筋コンクリートラーメン構造、幅員四米、延長二十米のものとなつた。請負は、松山関中組で、その金額は二四〇万円である。
一平荘門前から大平山の山腹を、ゆるく西北に廻つて槻川渓谷上を、遠山に進むと、左手に屹立する小倉城趾と、その懐に抱かれた小倉の清境が行人の目を惹き心を往昔に運ばせる。
山腹の道路が尽きて、車が急角度に左折して、山を下ると、遠山の桃源郷に入る。ここは、前述の小倉城主遠山氏の菩提寺、遠山寺があり松山城の支城小倉城が陥落した天正十五年より三年前に歿した遠山光景の遺骸がここに葬られたと伝えられている。かくして、古く小倉遠山は等しく遠山氏の領土として一地区をなし、又、近くは、槻川の沿岸を辿つて玉川村田黒、菅谷村鎌形から小倉、遠山を経て下里、下小川を過ぎる小川町に通ずる重要路線の一部であつた。然し、この道路も、幅員狭くとくに、小倉遠山間に、橋梁がないため、最近の交通事情に即応することが出来ず、槻川を境にこの両地区は分断されて、夫々、菅谷玉川両村の辺境的地域として、生活の不自由を忍ばねばならなかつた。
偲々小川町と玉川村が、数年前から、この古い路線の改良に着手し、本村も又、これに同調して、遠山地内村道の議が定まつた。これ等の事情から、この町村道の復活と、関係地域開発のためその集点となつたのが、谷川橋の建設であつてここに玉川菅谷小川三町村の連繁が成つて、永久橋の完成を見るに至つたのである。かくして、現在計画中の遠山及び、下里地内の町村道改良が終了すれば、この道路は、再び、小川菅谷玉川を結ぶ、大動脈となつて関係地域の発展は期して挨つべきものがあるとされている。
式は午前十一時前に始り、玉川議長の開会、神事、玉川村長の経過報告、菅谷村長の式辞、感謝状の贈呈、(土木事務所職員・関中組)小川町長の祝辞の後、両村々長によつてテープが切られ、遠山側から渡り初めが行はれた。閉会は菅谷議長、続いて、一平荘で直会の儀が行はれた。当日の参列者は菅谷・玉川村議、遠山・小倉区長、小川町長、議長、建設委員、小久保県議、土木事務所員、関中組等七十余名に上つた。

『菅谷報道』134号 1962年(昭和37)6月10日
このページの先頭へ ▲