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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第4節:社会教育

修養団

幸せの種まきの仲間たち
     埼玉県連合会会長 塚本智導さん 2

小林慈海さんとの出逢い

 前回触れたように、神憑りになった豊さんの噂は広まり、その噂を聞きつけて、多くの人が高山にくるようになった。その中の一人が塚本さんの生涯の師となる小林慈海(じかい)さんである。
 可愛い子には旅をさせろ、の格言にもあるように、自分の手元におくのではなく、誰かに面倒を見てもらおう、と考えていた豊さんは、渡りに船のように、小林さんに塚本さんをゆだねた。十四歳の頃のことである。
 十歳の頃のお寺でのつらい修行生活とは異なり、分別もついていた塚本さんは、素直に豊さんの指示どおりに小林さんにしたがった。小林さんのお供をするということは、全国行脚をすることであり、汽車に乗れることもうれしいことだった。小林さんには、いつも二〜三人のお供がついており、身の回りの面倒を見ていた。塚本さんは最年少のおつきだった。身の回りのことをするとはなっていたが、小林さんは何でも自分でする人であり、楽なものだった。
 小林さんのお供の時代に忘れられない事が二つある。
 小林さんは、多くの会社などから社員教育の一環として講演を頼まれていたが、姫路市の東洋紡績での講演中に最前列の椅子に座っていた塚本さんは、不覚にも居眠りをして、椅子から転げ落ちてしまった。無論、講演を聞いていた女工さんたちは大爆笑。
 しばらくたって、「この子は疲れているんですよ」と言葉をかけてくれた。その一言で女工さんたちは静かになり、講演は無事終了した。
 控え室に戻った塚本さんは、ひら謝りに謝ったが、小林さんは一言もそれには触れず、「疲れていたんでしょうね。今後はお互いに気をつけましょうね」とやさしく諭すだけだったと言う。
 もう一つは、明石の海岸沿いの旅館に宿泊したときのこと。前夜来の大雨も上がり、夜が明けて海を見た塚本さんは、大きな声で「先生、大雨で水があふれています」と言い、爆笑を買った。満潮時でもあったこともあり、海を生まれて初めて見た塚本さんの目にはそう見えたのだった。
 やさしい小林さんについていては、自分自身が成長しない、と判断した塚本さんは、十七歳になったのを機に、自分の進むべき道を真剣に考え、小林さんと相談し、お別れした。
 昭和七年(1932)、鳥取で別れた塚本さんは、豊さんの紹介で岐阜県の板取村(長水寺)に一人で向かった。
 今年(1997)の四月、最高裁判所で愛媛県の靖国神社への玉串料訴訟の違憲判決が出て、世間はかまびすしい。板取村では、遺族会にたいして補助金を出すなどして知られているが、当時は米もとれない寒村だった。現在では人口二千人程度の村であるが、当時はサトイモが主食、和尚さんも副業の養蚕に力を入れるような貧しい村だった。
 ちょうど食べ盛りだった塚本さんは、ご飯のお代わりもままならぬ生活で身体も数キロ痩せ、ついには体調を崩し、わずか八ヶ月でまた母の元へ舞い戻った。
 その年(1932)の九月に名古屋市の明忠院に移り、伊藤玄竜師の徒弟となり、本格的に僧侶として曹洞宗の得度を受け、僧名を智導と改名した。
 この寺にはたくさんの檀家があり、檀家の子どもたちのリーダーをおおせつかった。蓮沼門三初代主幹が少年時代に仲間たちと氷を売って資金を得たように、塚本さんも子どもたちと一緒になって、新聞紙を集めて袋を作り、それを売って子供会の資金を捻出した。
 この時代に人を集める楽しさを味わったことが、修養団の人集めにもつながるのである。
 昭和十一年(1936)には、名古屋市の曹洞宗・瑞泉寺専門僧堂に安居し、住職としての資格を取得した。
 昭和十三年(1938)五月軍隊に入隊し、中支(中国)に派遣された。戦場では隣にいた戦友が鉄砲に撃たれるのも目の当たりに体験し、自らも銃弾が右腕を貫通して負傷し、十四年(1939)四月には名古屋の陸軍病院に転送された。入院中にお花やお茶の師範の免許を取得したり、小林さんを病院に招き、講演会を催したりもした。
 金泉寺の住職になったのは、昭和十八年(1943)のことである。檀信徒強化に努め、小林さんを始め修養団の講師を招き講演会を開いたり、昔とったきねずかでお茶の会、生け花の会などを開催した。これが修養団の白ゆり会結成になる。さらには早起き会、託児所、早朝坐禅会、子ども一泊講習会などありとあらゆる催しを開催した。これが修養団の支部へと発展していく。支部の設立は昭和三十三年(1958)三月のことである。
 支部の設立が『向上』に掲載されたのをご覧になったのだろう。突然、故野口仲治さんが尋ねて来られ、埼玉県連合会設立へと話は進んでいく。野口さんは、当時の野本村支部(現在の東松山支部)を昭和二年(1927)三月に結成し、昭和五十二年(1977)に名誉団員となった、埼玉県連合会設立の恩人の一人である。
 塚本さんは野口さんと呼吸を合わせて、県連合会創立へと力を注ぐ。
 爾来、塚本さんは意気天を衝く勢いで、八和田、小川、熊谷、寄居、江南各支部、嵐山町連合会などを相次いで設立していく。利根川惣平さん、大塚喜太郎さんの跡を継いで、現在は埼玉県連合会会長の要職にある。
 八十二歳となった今でも自らバイクに乗り、本部から送られてくる『向上』『愛』を一軒一軒配って歩き、会員との会話を重ねることを最大の楽しみにしている。
 また、長男・智雄(修養団講師・ばんだいふれあいぴあ所長)の熱心さに口説かれ、裏山にキャンプ場を作り、そこで開催される少年少女キャンプを楽しみにしている。金泉寺というお寺なのか修養団の道場なのかわからない「場」を提供し、一家総出で修養団運動の伸展に尽力しているのである。
 昭和六十一年には名誉団員を贈呈され、嵐山町では民生委員、社会教育委員の要職を三十年以上も歴任し、まだまだ老け込む余裕がないほどの多忙の毎日をすごしている。
「埼玉県連合会といっても、県西部の市町村が加盟しているだけです。今後は、県東部の浦和や大宮などにも支部を結成し、文字どおりの県連にしていきたい」と、塚本さんはすこぶる意気軒昂である。

『向上』1025号 修養団, 1997年(平成9)7月
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