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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

鎌形小学校

ぼくのふでばこ 三年 杉田賢司

ぼくの ふでばこは
一年ぐらい つかっている。
ぼくのために はたらいて くれる。
もう
カバーが やぶけている。
中も きたなくなった。
あけるところも テープではってある。

ぼくのふでばこは かわいそう。
かばんの中で
いたいのを こらえている。
ぼくは おかあさんに
「ふでばこ買って」
というと おかあさんは
「だめだよ」という。

ぼくのふでばこは
まだ
ぼくのために はたらいてくれるから
がまんしよう。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

木ぞう校舎 三年 吉江信代

わたしたちの学校は
木ぞう校舎。

菅谷小学校は
鉄筋校舎。

わたしたちはなんで 鎌形小学校は
木ぞう校舎なのかと思う。

みんなは
鉄筋校舎になってほしいという。

だけどわたしは いまのままでいい。
遊ぶものが いっぱいあるからだ。

でも 一つだけさみしいことがある。
人数が少ないことだ。

それでも みんなとなかよく遊んだり
勉強もしっかりやっている。
やっぱりいまのままが いちばんいい。
           二月二十七日(木)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

春 長島マサ子

春になると きれいな
花が たくさんさく。

いろいろなかざりがつくれる。
くびかざりやゆびわなどが
たくさんつくれる。

花が たくさんさくと
にわが きれいになる。

はたけも花がいっぱいになる。
スカートも はけるから

春は 大すき。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

ぬけかかっている歯 上原久美子

歯が グラグラゆれている。
なかなかとれない。
おもいきって とろうと思っても
手が いたくなるだけだ。

かがみを持ちだしてきて見る。
この歯が ピクッと
とれないかな。
それとも まほう使いが来て
まほうをかけて
とってくれないかな。

古い歯がとれて
新しい歯が でてくればいいのにな。
歯がとれれば
おとなの 強い歯になれるのにな。

なんでも食べられる
強い歯になれるのにな。

早くとれないかな。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

かがみ 権田かおり

かがみを のぞいたら
かがみの中にも
わたしがいる。
わたしが 手をあげると
かがみの中の わたしも
手をあげる。

こんどは 口をあけてみた。
また かがみの中のわたしは
まねをした。

いやだな。
かがみって
まねをするのが
とくいなんだな。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

本 杉田悦子

本には いろいろある。
わたしは おもしろい本を読んだ。
それは マンガ本だ。

楽しい本は おとぎはなしなど
いろいろある。

本を読むと
しらないことがわかってくる。
だから本は だいすき。

わたしの家には
本が たくさんある。
図書室にも たくさんある。

わたしは 学校で本をかりる。
わたしは たくさん本を読んで
しらないことを
うんとわかるようにしよう。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

わたしの口 吉野和江

わたしは
テレビを見て、立とうとしたら
ポットに 口がぶつかって
はれてしまった。

やっとなおったと思ったら
また ちがうところがはれた。
こんどできたところは
口びるの近くだ。

歯をみがく時
いたくて なかなかみがけない。
ごはんを食べる時も
あまり大きな口があけられない。

水をのむときも お湯を飲むときも
しみてとてもいたい。
いたくていたくてたまらない。

歯がぶつかると とてもいたい。
早くなおてほしいなあ。
          (二月二十七日)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

ロッカー 根立文子

わたしたちの学校には
ロッカーがある。
一年生から六年生までの
教室にロッカーがある。
ロッカーの中には
習字の道具や
絵の具の道具
ノートなど いろいろな
物を入れておく。
だから
たくさん入れられるように
整とんしておかなくちゃ。
          (十一月十六日)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

小鳥 内田久美子

みみをすますと
小鳥の鳴き声がする
チュッピ チュッピと
わたしを よんでいる みたいに
チュン チュン チュンと
「あそびにきてね。」
と、いっているみたいに

ずっと聞いていると
わたしのことを わらっているみたいで
おかしくなってしまった
          (二月二十七日)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

おかいもの 吉田智恵子

わたしは、かい物にいった。
それは、四才の時だった。

わたしは心配で、こわかった。

おかあさんにたのまれてかい物にいった。
とちゅうで足がつまづいて、
ころんでしまった。とたんに、
買う物を、わすれてしまった。

うちに帰った時、おかあさんが、
「様子を見ていたんだよ。あぶないから。」
と、いった。
「がんばりやさんね。」といわれた時、
わたしは、びっくりしてしまった。

それからは、気をつけてかい物に行くようになった。
わたしは、かい物に行くのが、
すきになった。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

四年生とのドッジボール 杉田賢司

 三年になって、ぼくたちは、ふく式ではなくなった。
 ふく式の時は、男の子がたくさんいたのでよかった。
 三年生になって女の子の中に男が一人でぼくはとてもさびしい。遊ぶことは、休み時間にできるからいいが、勉強は、ぼくが一人だ。さびしい。時間表を見ると、水曜日に四年生といっしょに体育ができる。
 ぼくはとっても、うれしかった。
 水曜日になるたびに、四年生とだなと思うとはりきって学校にくる。
 掃除が終わって、五時間目の音楽が終わると待ちかねた体育がきました。
 今日の体育は、ドッジボールです。三年の女の子とはぜんぜんちがうドッジボールです。女の子は、ドッジボールがへただから、そんなにおもしろくありません。四年生とだったら、男の子がたくさんいるし、とってもうまいからおもしろいです。
 赤たい白でもやりますが、はじめは、女対男でやりました。女の方がたくさんいるけれどへた。男の方は、人数は少しだが、うまい。
 ボール体そうをしました。はじまりました。はじめは、ぼくが、がいやにでました。
 ぼくは、パスしてからもらったらすぐに、あてました。光男君がアウトになったので、ぼくは中に入りました。女の子は、弱いのですぐに玉がつかめるので、ぼくはアウトになりません。
 ふえが鳴って終わりです。ぼくたちの方が負けてしまいました。
 こんどは、赤対白です。
 人数は、赤の方が一人多いからのこり一人多くても、どう点になってしまいます。
 始めにぼくは、がいやにでました。みんなが、なかなかあたらないから、ぼくは中へ入れません。
 白は、どんどんあたっていきましたが、まこと君が、がんばっていたのでなかなな全めつできませんでした。
 大野君が、あたったので、ぼくは入りました。赤が勝ちました。
 ぼくは、とてもうれしかった。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

書写 長島邦江

 毎週月曜日の四時間は校長先生が教えてくださる書写です。
 始めは自分でも気にいっている字が書けなかったけれども、いくつか書いているうちにうまくかけるようになりました。
 でも校長先生に出すとすぐなおされます。しゅう字を書くのがあきると、みんなとおしゃべりをします。そうすると校長先生におこられます。
 校長先生は、こわいけれどもわたしはとてもすきです。先生はいろいろな筆を持っています。
 このごろ、おせいしょでしゅう字を出すとたくさんまるをもらいます。
 うちに帰っておかあさんに見せるとほめられます。わたしは、うれしくてたまりません。
 みんなは、じょうずだから、うらやましいです。それに、わたしは字が小さいから、みんなに、
「字が小さいよ。」と言われます。
 わたしは自分で大きく書こうと思っていても小さくなってしまいます。
 わたしは、くせなのかなと思います。
          (三月八日土よう日)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

ドッジボール 吉江信代

 水曜日は四年生と体育をします。
 だいたいドッジボールをしています。わたしは、なかなな球がつかめませんでした。
 わたしが投げる球も、だいたいがとられてしまいました。
 わたしは、いっしょうけんめいなげたりとったりしているけれど、球をとろうとするとおとしたり、なげる球はすぐとられてしまいます。そうゆう時は、四年生や、けんちゃんがうらやましくてたまりません。
 どうかして球をつかんだり、投げたりしないと、いつになってもしょうがないと思います。
 ある日、四年生とボール運動をした時、投げたり取ったりするのが、じょうずになってきました。そして今までよりもっとじょうずになろうと思いました。
 そしていつもと同じように四年生と体育をやりました。その時もドッジボールでした。
 いっしょうけんめいやっていました。
 その時四年生の男の子がわたしも目がけて球をなげてよこしました。
 わたしは、いつの間にかボールをつかんでいました。わたしはうれしくてたまりませんでした。
 その日は、四回ぐらい四年生の投げた球をつかんで、けんちゃんの球を一回つかみました。
 その夜は、そのことをおとうさんに話しました。おとうさんに、ほめてもらってまたうれしくなりました。
 その日から、ボールを受け取ったり、投げたりするのがとてもじょうずになりました。そして今では、あてられるようになりました。
 わたしは、今までくじけないでよくがんばったなあと思って、またうれしくなりました。
          (三月八日 土)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

グループ 上原久美子

 三学期になってグループをとりかえました。わたしは、はん長になりたかったので、手をあげました。
 四人上げて「じゃんけんで勝った方」がなると言うのでじゃんけんをすることになりました。わたしは(これじゃあまけるな)と思ったら、勝ってしまいました。
 口では言わなかったけれど心では、(よかった)と思っていました。
 次は、はんに入る人です。
 わたしのはんには、かおりちゃんと、内田さんが来ました。けれで内田さんは、文子ちゃんの方へ行ってしまいました。
 わたしは、二人になってしまったのでがっかりしました。そのうち
「まあいいや。」といって、人数のすくない、わたしたちのグループにはいってきました。
 わたしは(そんなによくないのじゃあ、ほかのグループに行ってもいいのに)と思いました。
 次は、名まえを決めるので、けんちゃんは
「とら組がいい。」
と、言いました。
 わたしと、かおりちゃんは、まあいいと、いうように、決めてしまいました。
 わたしは、始めにこんなふうでは、この組は、うまくいかないなあと、思いました。けれども今では、まあまあよくやっているのでよかったなあと、思いました。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

あみもの 権田馨

 私は、手げいクラブでマフラーをあみました。はじめは、あみ目が多すぎたり、少なすぎたりでこぼこでした。そして、はじめは、こまあみでした。こまあみは、しあげるのがたいへんなので、こんどは長あみにかえました。そうしたら、すうするあめるようになりました。長あみは、あみ目が長いのでどんどんながくなるので、うれしくなりました。
 毛糸は、水色と黄色のです。全体に水色、間にすこし黄を入れました。一か月と四日ぐらいであみあがりました。
 クラブは、月曜日の一時間だけで、十一月と十二月です。どこかへ出かける時は、ふくろの中に入れて持って行きました。そしてバスや電車を待っている時あみました。すこしおかあさんにやってもらったところもあります。でもだいたい、わたしがやりました。
 はじめは、できるかなと思いましたが、やってみると、あんがいかんたんでした。
 できあがったら先生に見せました。
 先生は、
「じょうずに、できましたね。」
と、言ってくださいました。
 私は、生れてはじめてマフラーをあんだのに、じょうずだと、いわれたのでとてもうれしかったです。
 今度の時には、もっといいものをあみたいと思います。
          (三月八日 土 晴)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

プールで泳げたこと 杉田悦子

 一年生から二年生までは、プールではなくて、川でおよいでいました。
 わたしは、それまでおよげませんでした。
 三年生になって菅谷小学校のプールへ行っておよぐことになりました。でもわたしは、およげないので、プールにかわっても同じでした。
 そして、「よーし」と思って足をバタバタさせてみたら、前にだんだんとすすんでいきました。さっきはあっちの方なのに、こっちの方に来ていました。ふしぎだと思って、また向こうまでいって、足をバタバタさせてみたら、またこっちに来ていました。
 その時は、「もうおよげたんだなあ。」と思った。そしてうれしかったのでどんどん、およぎまくりました。
 わたしは、はじめておよげて、もっと早く二年生ぐらいの時から、足をバタバタさせてもっとじょうずに、およぎたいです。
 わたしは、その時は、ほんとにうれしかったです。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

わたしの仕事 根立文子

 わたしの仕事はいっぱいあります。
 先づ一番大せつなのは、勉強です。そのほか係りの仕事があります。国語係にほけんと給食係りそのほか、代表委員をやっています。
 国語係りは、国語の本を出したり入れたりすることと、新しい所を勉強するようになると、そこに出てくる漢字カードをさがします。
 ほけんと給食係りは、けがをした人を先生の所へつれていったり、体のぐあいの悪い人を先生に知らせて、ほけん室へつれて行くのを手つだったりします。
 代表委員は、第三木曜日の代表委員会に出てきまったことを三年生のみんなに話します。
 四年生になってからもしっかり、自分の仕事をやるようにします。
          (三月八日 土)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

かきぞめのれん習 内田久美子

 三年生になってはじめて、かきぞめのれん習にでられました。
 冬休みの一番はじめのれんしゅうの時は、むねがどきどきしました。でも次の日からはおちついて書けたのでよかったです。
 れんしゅうの時はいろいろ校長先生に注意されたけれど、だんだんなれてきたら、足がいたくなったりして、とてもいやでした。
 それでも一番さいごの日となってあまりいいのが書けなかったので、その時は、いっしょうけんめい書きました。
 てんらん会に出したの返って来たのが、一年生の教室の前にはられているのを見たら金しょうだったのでよかったです。
 家に帰ってからみんなに、そのことを話したら、うち中の人がよろこんだのでよかったです。しょうじょうをもらう時も、むねがどきどきしました。
 わたしは、れん習の時とてもがんばってやったので、近所の人にまで、
「くみちゃんは字がじょうずだね。」
と、ほめられました。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

クラブ 吉野和江

 三年生になって、はじめてクラブに入った。
 夏や秋の中ごろまでは、外でバトミントンやソフトをやっていたけれど、冬は、内の中でクラブをやりました。家(うち)の中でクラブをやりました。
 わたしは、始めは、クラブってどういうのかなと思いました。
 わたしは、冬のクラブでは読書に入りました。読書が一番すきだからです。
 クラブに入る前は、ファーブル一さつぐらいしか読んでいなかったけれど、クラブに入ってからは、どんどん読みはじめました。
 伝記は今では十二さつぐらい読みました。一日でよみきれたり、二日で読みきれたり、三日でよんだり、十日もかかったのもありました。
 本の中で一番心にのこったといえばモーツアルトか、ファーブルです。
 モーツアルトは音楽かで、小さい時から、ピアノをひいたり、バイオリンをひいたりしました。
 そして、大きくなってから、モーツアルトは、自分の死の音楽を作りました。なんどもなんども血をはいたそうです。
 わたしは、モーツアルトはえらいんだなと思いました。
 ファーブルは、とてもこん虫ずきで一生虫とくらしたそうです。遠くの島にいって虫を調べたりしました。
 わたしならすぐにあきてしまったり、虫がいなければ、あきらめてしまうのにファーブルは、しんぼうづよいなあと思いました。
 虫のことを細かく研究したりしてえらいなあと思いました。
 これからも、たくさん本を読みたいと思います。

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月

てん校したこと 吉田智恵子

 わたしが、鎌形小学校に転校してきたときは、まだ友だちは、できなかった。けれども今では、だんだんと友だちができて、転校して来たかいがあった。わたしは、
「友だちがふえて、よかったな。」
と、心の中でいっています。
 上原さんのあだ名は、「くいしんぼう」、くに江さんは、「ちびでか」とかいろいろな、あだなでおもしろいけど、わたしは、しき第二小学校の時のあだ名は、「りんご、みかん、ぶた」と、いわれました。それは、わたしはさむくても暑くっても、ほっぺが赤くなっているからで、りんごやみかんと言われたんです。
 もうひとつの、ぶたというのは、わたしの体重は二十四キログラムだったのに、顔がふとっているからだそうです。
 でもわたしは、「ぶた」というのはいやです。女の子は、いつも「吉田さん」と、言うけれど、男の子は「ぶた」といいます。
 わたしは「ぶた」と聞くとおこります。すると男の子は、「吉田さん」といいかえします。
 ある日、男の子がろう下で、ねころんでいて、わたしは、しらないでふんでしまいました。男の子は、ないてしまって、さからってきました。わたしは、
「ろうかで、ねころんでいるからだよ。」
と、いいかえしました。みんなが、さわいで集まってきました。わたしは、ないてしまいました。
 その男の子の名は「あべたとしゆき」といって、
「ふとっておこりだすと、とてもこわいのに、今日は、ないてしまったので、みんなが、びっくりしていたんだって。」
と、友だちにいわれました。
          (三月八日 土)

『三年生の文集』鎌形小学校, 1975年(昭和50)3月
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