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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第1節:寺子屋から学校へ

七郷小学校「監察官視察簿」にみる教育指導

 七郷小学校に残されている「監察官視察簿」には、戦前の郡視学・県視学の学校視察時の指導事項が簡潔に記されている。そこには戦前の教育に対する時代の影響が色濃く現れている。どのような指導がなされていたのか見てみたい。
 本論に入る前に明治政府によって始められた明治時代の教育制度について簡単に見てみよう。

明治時代の教育制度

「学制」 明治政府によって1872年(明治5)に文部省が設置され、翌1873年に「学制」が発布された。「学制」は、日本における近代の学校制度を定めた最初の法令であった。欧米の近代教育観に基づいて、「邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人無カラシメン事ヲ期ス」とのべて、全国民に学校教育を授けようとする公教育思想と個人主義的な教育思想を持っていた。

教育令 しかし、実施にあたっては画一的で、権力的に啓蒙するやり方で当時の日本の社会の実情に合わない面も出てきたため、1879年(明治12)に「学制」に代わってかわって教育令が公布され、地域の教育要求に見合った公教育制度をめざすものになった。しかし教育の基本は国の方針で貫かれていった。

教科書 教科書は、1886年(明治19)に出された第一次小学校令によって、文部省検定の教科書になり、さらに1904年(明治37)から国定教科書になった。

大日本帝国憲法制定と教育勅語・御真影 他方、明治初期の自由民権運動の高まりによる民主主義思想の普及に対抗して、政府は1889年(明治22)に大日本帝国憲法を制定して新しい天皇制国家を築いた。そしてこの天皇制国家を思想面から支えるために、1890年(明治23)には教育勅語が発令された。これによって勅語という形で学校教育の根本理念と国民道徳の基本が打ち出され、戦前の教育の基本となっていった。
 この年から教育勅語の謄本が全国の学校に下付され、各学校では式日などに生徒を集め奉読式を行なうことが指示された。それとともに御真影(天皇・皇后の公式肖像写真)も下付された。翌年文部省は「小学校祝日大祭日儀式規定」を制定した。これにより、学校儀式の基本型が定められ、御真影礼拝、天皇皇后の万歳奉祝、勅語奉読、校長訓話、式歌斉唱の形になった。
 こうして帝国憲法に基づく天皇制国家と教育勅語、御真影、そして教科書の国定化などによって日本の教育は完全に国の支配下に置かれることになった。

 視学制度 各学校を視察し指導するために郡視学・県視学が置かれた。その最も重要な職務は学校視察を通じての教育実践の指導監督であった。郡視学、県視学が埼玉では明治30年代から置かれ、学校現場に強い力を持っていった。

第三次小学校令 1900年(明治33)8月
1 尋常小学校 修業年限4年に統一  この課程は義務教育に
高等小学校の年限  2年、3年、又は4年
保護者 「学齢児童ヲ就学セシムルノ義務」をおった。
※後に義務教育制度の改正  小学校が6年制へ
2 教科内容の整理統合
それまでの読書・作文・習字 → 国語に
尋常小学校 修身、国語、算術、体操の4教科に
 土地の状況によって図画,唱歌、手工、裁縫など。
高等小学校 修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操、裁縫
就学率の向上 埼玉 1900年(明治33) 男女とも90%を超える
          1907年(明治40) 男女平均で98%
※1907年(明治40)3月 修業年数を4年ら6年に延長

七郷小学校視学視察の指導事項

大正時代

 「視察簿」によると1914年(大正3)7月28日吉川郡視学が訪問、「御真影奉置庫ノ修理ヲナスベシ」と指導されて、翌年は「御真影室の設備至急着手せられたり」、さらにその翌年も「奉置室ノ整理室ヲ怠ルベカラズ」、さらにその翌年には「御真影奉置函ノ位置ヲ一層高ムル様壇ヲ設クルコト」と、さらに権威付けするような指導が御真影室に関してなされている。
 すでに述べたように1890年(明治23)に教育勅語が発布され、やがて教育勅語の謄本が各学校に下付された。各学校では式日などに奉読式を行なうように指導され、それに続いて御真影が各学校に下付されたので、それを奉置する部屋を用意するように厳しく指導されていることが分かる。この間、教育内容にかかわる指導は1916年(大正5)のときに「高学年ノ教室ニハ世界地図ヲ掲グルコト」と記されているだけである。
 1918年(大正7)には吉川郡視学が訪問、「教授者ハ常ニ標準語ノ使用ニツトメ正シキ国語ノ普及指導ノコトニ任ズルノ覚悟アルヲ要ス」、「歴史科教授ニアリテ余リニ史実ヲ重視シ国民的感情陶冶ニ触ルルモノアリ教授上ノ改善ヲ要ス」という教育内容に対する指導の記録が記されている。
 当時明治の終わりから大正の時代にかけて、欧米の新教育思想が日本の教育界に影響を与え、大正デモクラシーの新教育運動が生まれ、明治以来の国家主義教育を批判する動きが起っていた。こうした状況のなかで、教授者に標準語の使用と正しい国語の普及を求め、歴史の授業では「史実の重視」よりも「国民的感情の陶冶」を重視すべしという指導は、当時の大正デモクラシーの新しい動きに対抗する国家主義の立場からの指導であったといえよう。
 1919年(大正8)の視察では同じ郡視学が、「御真影奉置ハ一層尊厳ナル設備ヲ要ス」という指導とともに、「児童ノ課外読物ニ注意シ思想ノ善導ニ遺漏ナキヲ要ス」と指導している。御真影と一体化された国家主義的な指導として注目される。

昭和時代

 1927年(昭和2)11月22日の視察では、「特ニ教授方針トシテ実用的陶冶ノ方面ヲ没却セザルハ我ガ国刻下ノ事態ヨリ見ルモ適当ナルモノナリト信ズ」と記されている。1927年(昭和2)の日本は金融恐慌が起り、経済が悪化し、中小企業や農業が深刻な打撃を受けるようになっていた。おそらくそのような状況のなかで、実用的な授業方針を評価する指導がなされたものといえよう。
 1937年(昭和12)12月9日の今成県視学の視察では、「本校教育是たる徳教の振興勤労尊重体位の向上等実績見るべき点多し」と記されている。1927年(昭和2)の金融恐慌から始まった昭和の時代は深刻な経済危機のなかで、日本は1931年(昭和6)の満州事変、1937年(昭和12)の日中戦争と戦争時代に突入して行った。こうした状況を反映して、学校教育の力点が道徳、勤労、体位向上などに力を入れていることが見えてくる。
 1941年(昭和16)年2月20日の今成県視学の視察では「興亜青少年修練道場の設置よろし」、同年10月28日の小山県視学の視察では「体育ノ振興ハ第二国民養成上肝要ナル点ナリ、養護施設ト相俟ッテ力ヲ致サレタシ」と記されている。これは次代を担う子どもたちの体育振興の重要性を指摘したものといえよう。
 アジア太平洋戦争の最中の1943年(昭和18)10月27日の大塚県視学の視察では、「全職協力一致時局下教育の重要性に鑑みより努力精進せらるるは素晴らしい」「決戦体制下に於ける教育運営として食糧増産・体力練成の努力実施と共に科学教育部面の高揚をもはかられ度し」と記されている。まさに国家総動員体制下の学校への要請が記されている。
 以上、視学の指導記録を見てきたが、明治の時代に制定された大日本帝国憲法によって定められた天皇制国家の体制が、教育勅語・御真影の下付をとおして教育現場に徹底され、やがて満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争のもとで戦時教育の色彩を強めて行ったことを見ることが出来る。

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