ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第4節:平成

嵐山町

互いを守る
   コミュニケーションの場・組織はどこに
                 =昔と今を探る=

 「内平らぎ外成る」という平成の世の中を迎えたというのに、この思いとうらはらに、なんと殺伐な世の中でしょう。大きなところでは中国の天安門事件、身近なところでは幼児誘拐殺人事件等々、気の重くなることが続発しています。
 特に、大人も子供も多忙な今日、そのはざまで起きた近隣市町の幼児誘拐殺人は心の凍る思いがします。人があふれているようでも、一瞬のうちに空白場面ができるような現状を考えるとき、地域のコミュニケーションの必要性を痛感させられます。むろん他人への過干渉は避けなければなりませんが、決して無関心であってはならないでしょう。
 過去の日本には自然法則的なコミュニケーション組織や慣習があり、地域内での人間関係・家族構成など、相互に熟知している庶民生活がありました。これが、戦前・戦中時代に悪用された苦い経験もありますが、相互扶助の関係は現在より密であったと思います。そしてまた、現在のような多様性をもつ流動の時代であればこそ、地域のコミュニケーションや心のゆとりが必要といえるのではないでしょうか。
 嵐山町は町民憲章で「きまりをまもり ともに助けあい 平和なまちをつくりましょう」とうたっています。一人ひとりが気持ちにゆとりを持ち、目くばり・気くばり・思いやりが持てたら、あんな悲しい事件の再発防止の一助ともなるのではないでしょうか。そんな思いから我が町の過去・現在のコミュニケーションについて取材をしてみました。

  昔

 かつての嵐山町には、生活に密着したコミュニケーションの場として、大人たちには各種の講、道普請・堀普請やおこもり、子供たちには天神講と呼ばれるものなどがありました。講は豊作を願っての集いで、老人たちのおこもり(お堂にこもって一夜をあかす)と同様信仰に通じるものです。道普請・堀普請は字のとおり、現在のように道路や水路が整備されていなかった時代の生活協同体としての地域の協力活動でした。そしてそれらが終了した後は、各々が持ち寄った料理や酒などで〝お日待ち〟と呼ばれる宴を楽しんだといいます。現在でも道普請は形を変えて残っている地域もあります。
 子供たちの天神講、これは一夜を徹して一軒の家に地域の子供全員が集まって遊ぶものです。これには大人と子供のふれあい、年齢差を超えた子供たちのつながりがあり、大人たちも地域の子供は自分の子供同様に接していたそうです。そして遊びの世界のルールも、年長の子供たちを中心に秩序があったといいます。
 その他ユニークなものとしては〝一升ぼたもち〟があげられます。これは男遊びと呼ばれる集いの一つで、男性だけで大きな一升のぼたもちを作って、皆で食べる風習です。豊作を願っての行事で、由来は鎌倉時代にさかのぼり、現在でも五年に一度行われている地域があります。
 このようにあげてみますと、娯楽の少なかった昔の方が生活に密着したコミュニケーションが発達していたとはいえないでしょうか。

  今

 急激な社会情勢の変化により、地域コミュニティ(共同生活体)の意識が薄れがちといわれます。コミュニケーションの必要性が認識されながらも、大人も子供も忙しい生活に追われ、ゆとりのなさからくるわずらわしさ感も加わり、地域のつながりが弱まりつつあるのではないでしょうか。夏休みを前にして、悲しい事件の再発防止を願いつつ、特に子供たちのまわりを探ってみました。
 あの悲惨な事件をきっかけに、大人たちの意識にも少々変化が起きているようです。親相互の連絡をち密にするのはもちろん、地域での連帯の必要性を認める人、子供の世界を過剰に保護するだけではなく意識的に親の世界を広げる(例えば地域活動に積極的に参加し、親と子共通の世界を広げる)必要性を感じる人、見知らぬ子にも注意を払うようになった人等々。また、地域によっては、持ち寄り親子パーティーをしたりして、日ごろからコミュニケーションを大事にしているところもありました。
 ところで七月五日にこんな交流が行われました。前回の芝桜の植え付けに続き、フラワーラインの除草作業は、近在のかたがた、ふる里づくり推進協議会会員、そして同ラインを通学する玉ノ岡中学校の生徒たちの協力ですっかりきれいになりました。さらにコスモスの植え付けも新たにされました。
 とかく通学中の生徒は近在に迷惑をかけがち(道いっぱいに広がって歩いたり、ゴミを捨てたり)ですが、こんな協同作業の試みがきっかけとなり、お互いに気軽にあいさつし、声がかけられるようになればすてきですね。また世話をすることにより愛情も生まれましょう。交流と情操を育てるこんな試みは今後も必要ではないでしょうか。
 取材に歩いてみて、まだまだ地方の良さを残している町でもあるとホッとさせられました。

  将来

 さて皆さん、以上のように嵐山におけるコミュニケーションの場や組織を、「昔と今」にわたって、調べてみました。あとは、この状況を踏まえ、嵐山町の将来を模索することが問題となるでしょう。
 そこで、今後の嵐山町は、どのような町になっていくと思われますか。二十一世紀にむけ、どんな町づくりを目指しているのか町長にお話を伺ってみました。

町長談(要約)
「アンケート調査の結果では、嵐山町のイメージ及び自慢できるものとして〝豊かで美しい自然〟との回答が圧倒的に多く、また町の将来像として〝自然環境に恵まれた町〟との回答が約半数を占め、次に福祉・産業と続いている。
 経済生活が豊かになり都会化が進むにつれ、人の関心は個人生活のほうに比重が大きくおかれるようになってきている。それ故、町民相互のコミュニケーションを図るのは昔に比べ難しくなってきてはいるが、心の豊かさ・ふれあいがはぐくまれるような町を目指し、開発とのかねあいも考えながら、自然環境に恵まれた町づくりに力をそそいでいきたいと考えている」

 町長のいわれる〝心のふれあいを大事にできる町づくり〟それには住民一人ひとりの努力も必要でしょう。町政には住民の幸福度を優先して考えた町づくりを期待するとして、私たち一人ひとりがほんの少し気持ちにゆとりを持ち、自分の生活のみでなく周囲に目をやる余裕を持つことができたら、そんな町づくりに一歩近づけるのではないでしょうか。
 子供社会は大人社会の反映といわれます。もし、大人たちが人の痛みを感じることができなければ、まして子供たちは…でしょう。ほんの少しの目くばり・気くばり・思いやり、そんな人間味の投影したコミュニティとしての町。まずは私たちが率先して何かを実践してみませんか、大事なものが失われない前に…。

『嵐山町報道』375号 1989年(平成元)7月31日
このページの先頭へ ▲