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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第3節:昭和(町制施行後)

嵐山町

私の思い出

金井倉次郎 

 1955年(昭和30)10月16日〜1959年(昭和34)10月15日

 私は嵐山町が合併して三二年、町制施行二〇年記念事業として発刊する嵐山町議会史に一言集の原稿を書く機会を得まして大変光栄に思っております。私は市町村合併促進法が施行され菅谷村七郷村二ヶ村合併が出来、新しい菅谷村の議会議員になりました。当時の私のことを述べてみます。大蔵地区の皆さんの、すいせんを受けましたが、農家に生まれ中間は戦地の生活が多く、政治にはうとく、幾度も辞退いたしました。後日強い要請がありまして、立候補となりました。その時菅谷地区で青年団主催の候補者立会演説会が計画されました。
 私は演説のことを少々書いてみます。私は順番が二番でした。一番は志賀の大野幸次郎氏がベテラン政治家の口調で演説されたあとでした。私は合併当初の政治は両地区公平な政治を行う事が第一スローガンと考えました。自分の持時間五分、登壇すると講堂内一同の注目、拍手を受けました。少々沈黙ののち自己紹介から、演説主旨の発表には公平な政治を行うため、七郷地区の精通であると黒板に座布団ぐらいの二字を書きました。この事が受けたのか、大きな拍手が起こりました。持時間内に終了しました。選挙戦は簡単でおにぎり弁当少々で実施、議員となりました当時、村長は高崎達蔵氏でありました。
 議会は議長一年交代でした 当初栗原侃一氏
  委員会 総務 民生文教 土木産経
 町の予算総額二二四五万五〇〇〇円
 今見ると余りにも小型のようですが、菅谷村の政治が一切執行されました。なお私が身近な事業の実施について書きたいことがあります。大蔵鎌形地区合せて三〇ヘクタールの水田があります。この潅漑用水は都幾川の水を使用しますが、毎年大蔵地区では用水路が悪く水不足でなやみました。町でも大変心配され、補助事業を考えていました。昭和三一年度小団地開発事業の施行が予定されました。この事業を実施することを耕作者と話し合いましたが、今迄の鎌形地区(上流)、大蔵地区(下流)の住民感情と申しましょうか、古い云い伝えなどがからみ事業の話し合いが四一回目にまとまりました。内容が工事費、補助金交付、永年の返済金、条例の了解ができなかったわけです。工事は東松山市伊田組、設計通り竣工。延長一〇〇〇メートルのコンクリートの用水路が、両地区に用水を送りました。両地区の耕作者が政治の有難さを感じ完成を祝いました。今では構造改善事業が実施され、用水路は改善されてなくなりました。昭和三一年(1956)から五七年(1982)まで両地区に与えた恩恵は多大で、地域の和にも大きな力となったことを忘れることはできません。菅谷村議員となり、七郷地区の灌漑用溜池の改修工事と併せ公平な政治の一たんを書きました。以上をもって終わりとします。

『嵐山町議会史』「第四章 思い出を顧みて」嵐山町議会史編さん委員会, 1987年(昭和62)3月
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