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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第3節:昭和(町制施行後)

嵐山町

里づくり文化構想
  ——文化行政懇談会の提言——

 埼玉県では、文化行政の推進を県政の最重点課題として位置づけ、各種の施策が実施されております。
 昨年(1979)九月、本町が埼玉県文化行政モデル市町村推進事業のモデル町として指定され、嵐山町文化行政懇談会が発足し、以来七回にわたる懇談会と、二回の講演会さらに県内県外等の視察を三回行いました。
 文化行政の重要な意味は、行政が文化の視点をもつことによって、人間生活の全体性という視点で、これまでの縦系列の個別行政を問い直し、自治体行政を主体的な総合行政として再構築しようとするところにあると考えられます。
 心豊かな安らぎのある里づくりこそ地域文化を創造する基盤であります。
 こうした視点から、文化行政懇談会で里づくり文化構想が作成され、二月二十九日、町長へ答申がなされました。
 報道委員会では、この答申の内容を町民の皆さまに知っていただくよう以下、四回にわたって紹介します。

 ここは比企丘陵の山ふところに近く、美しい山河とゆかしい歴史にはぐくまれ、わたしたちの先人が営々として築いてきた里である。里とは幸(さち)多き処(ところ)の意味だという。
 この先人の恵みを謝し、次代の人びとのしあわせを思うとき、今を生きるわたしたちの誰もが願うところは、文化文明の名に価する「里づくり」ではなかろうか。
 さて、嵐山町文化行政懇談会は、昭和五十四年(1979)九月から五十五年(1980)二月にかけ、前後七回にわたって開催された。最初は「文化行政」という言葉にとまどいを感ずるほどで、本懇談会の課題は、わたしたち委員にとって、全く新しい命題であった。そこで「文化行政とは何か」の学習から始められたが、ようやく「文化行政とは文化の視点から行政を見直す」ことにあること、また、行政の文化化等の新語についても理解が深まるにつれて、白熱した議論の中から数多くの提言が出された。
 それらの提言は、いずれも文化的視点から行政目標(里づくり)に的を合わせての発言であった。そこでわたしたちは、これを「里づくり文化構想」への提言としてとらえ、表題のようにまとめることにした。換言すれば「文化の視点から見た里づくり構想」の意味である。
 なお「里づくり」という語は、地域やコミュニティに代るべき言葉として、あえて採用した。それは日本語として古くて美しい里という語に、新しい意味と内容を与えることによって、「里づくり」という語が、新しくよみがえることを期待したものである。
 さて、討議のなかで、当初から特に問題にされたのは、「何が嵐山町の独自性であるか」という問いであった。それは、この構想は嵐山の独自性を主軸にまとめるべきであるという議論であった。討議のすえ、嵐山町の独自性として把握されたのは、(一)美しい自然、(二)ゆかしい歴史、(三)近代的な公共施設の三つであった。
 次に構想として掲げるものは、まず嵐山町の三つの独自性を中心にまとめた提言を記し、ついでこれと合わせ「里づくりへの新たな試み」としての提言を取りあげた。この両者をあわせて「里づくり文化構想」と呼ぶこととした。

—— 次号から三章にまとめられた内容を順を追って紹介します ——

『嵐山町報道』289号 1980年(昭和55)4月5日

里づくり文化構想 文化行政懇談会の提言

第一章 独自性への構想

一 自然を生かす

 嵐山町の自然は一言でいえば、「山紫水明の地」である。
大平山を頂点として南北に連なる数個の低い山並は、遠くかすむ関東平野を望み、赤松や、くぬぎを主体とした林野を形成し、春夏秋冬に匂うが如き美景を展開する。さらに笠山に源を発する槻川と、都幾山から流れ来る都幾川とは、絶景武蔵嵐山渓谷を経て町の中央部、二瀬(ふたせ)において合流、広い河原と清冽な水をたたえて上水道の豊かな水源となり、東松山市に流れ去る。
 その二瀬の北岸は断崖を形成し、その上の台地に、かって畠山重忠公の居城であった菅谷館跡がある。また、低い丘陵の山ふところの至る所に、一九〇余の溜池があり満々と水をたたえている。市野川【・】粕川・滑川等の小河川に流入する無数の小川は美しい点景とともに水田の用排水となる。本町の中核である市街地さえも、清明の大気の中にむしろ田園都市としての風趣(ふうしゅ)を添えているといえるであろう。

一 美しい自然の環境

□河川及びため池
○都幾川・槻川をきれいにし蛍の里をつくる
○カジカの鳴き声を復活させる
○水遊び、川遊びのできる川にする
○土手、堤防あるいは河川敷に四季を通じ野生の花を咲かせる
○ため池を整備し遊園地化する
○川・ため池を利用し魚類養殖の促進
□丘陵地
○山間の湿地帯に菖蒲を植え、菖蒲谷をつくる
○小高い山にツツジを植えツツジの山をつくる
○梅林をつくり町民の憩いの場とする
○道端にツリガネニンジンの群落・ヤマフジの咲く山・山間に片栗・春蘭の群落等四季折々の美しさをいつまでもなくさず育てていく。
○山林・ため池を活用し自然公園をつくり遊歩道・山小屋・釣り場・休憩所を設ける
○山頂公園の設置
□田園
○ほ場整備の推進をはかり休耕田等の農地は農協等が借り受けて柿・栗等の産地化をはかる
○嵐山コロニー周辺に桜を植え桜の園にする
○鎌形八幡神社の周辺にカエデの木を植えカエデの森にする
○歩道にもみじの木を植えもみじ並木をつくる
○各施設への道標的に各種の木を植える
○道路の美化花いっぱい運動の推進をはかる
○道路の両側を借り上げ道路公園をつくる
○躍動的な美しい町づくりの推進
○豊かな自然と緑をどこまでも守り抜き子孫に残す
□嵐山の味
○手打うどん・ゆず・ギンナン・クルミ・栗・桑の新芽・タラの芽・木の実等の山野草を利用した製品・果実酒・菓子を推奨する
○新しい味への創造・発掘・ギンナン・クルミ・栗を利用し特産品をつくる
○重輪寺の大かやの実の利用
□民俗行事
○お月見・十日夜・おくんち・小正月・一升ぼたもち・さなぶり等の復興と伝承
□広告等の規制
○広告規制条例の制定
□健康
○史跡めぐりマラソン・ジョギング・歩け歩け大会・オリエンテーリング等の推進
□既存産業の振興と花木・盆栽等の産地化
□郷土に合った産業の開拓
○適産地のゆずの植栽をすすめ、ゆず巻・ゆず菓子・ゆみその作り方を広める
○町の木である梅を利用する
 (梅の木の植栽をすすめ、梅の実の加工梅精等)
○干ししいたけの生産を増進する
○いも掘り畑をふやし盛んにする
○ナラ・クヌギを利用した木炭の生産をすすめる
○窯業の振興

『嵐山町報道』290号 1980年(昭和55)5月10日

里づくり文化構想(その三)

第一章 独自性への構想

II 歴史を愛する

 嵐山町の歴史の象徴は、鎌倉時代の典型的な武人であった畠山重忠公ゆかりの菅谷館跡及び鎌倉街道、木曽殿三代にかかわる遺跡と伝承、平沢寺跡、笛吹峠、町の南北に点在する七世紀頃の古墳群、杉山城跡及びこれに関連する貴重な先人の遺産である。
 わたしたちの祖先は、この勝れた風土の中に居を構えて営々と働き、学び、かつ、たたかいながらふるさとを築き継承し、わたしたちに残してくれた。現在嵐山町に住むわたしたちはこれら有名、無名の先人達と無縁であるはずがない。歴史の遺産をまもり、先人の偉業を受けつぎ、さらに新たなる文化を創り後世に伝えることは、わたしたちに与えられた責務であろうと考えいくつかの提言を試みたい。

ゆかしい歴史

□史跡・遺産の保護と利用
○重忠祭・木曽殿三代祭を勧奨する。
○鎌倉街道を整備し笛吹峠から将軍沢の窯跡群を包括した「歴史の道」をつくる。
○各古墳や遺跡を保存し、歴史公園とする。
□伝統と教学
○伝統工芸の伝承。
○日本郷学研修所における定期講座等の文化的エネルギーの継続。
○歴史講座・歴史講演等の開催を積極的に行う。
□文化財の保護
○有形・無形の文化財の尊重
▲有形文化財 平沢寺の鋳銅経筒、向徳寺の阿弥陀如来及び両脇侍立像等の保護
▲無形文化財 八宮神社獅子舞、兵執神社獅子舞、古里の祭り囃子等の伝承
○杉山城跡を整備し、城跡公園とする。
○文化財保護週間の設置

III 施設を整える

 嵐山町には現在、旧日本農士学校跡に我が国唯一の国立婦人教育会館とこれに隣接して東洋教学の本拠ともいうべき日本郷学研修所がある。さらにその西側の国指定菅谷館跡は県立史跡公園として整備されつつあり、その中核に歴史資料館がある。北部古里の林間には設備の整った総合福祉施設、県立コロニー「嵐山郷」がある。
 さらに教育施設としては、菅谷に大妻女子大学嵐山女子高校があり、町立の小中学校等及び公民館地域の集会所等も急速に整備されつつある。こうした国、県立の施設を含めて、わたしたちは、相互に深く連繋(れんけい)しあいながら、その活用と地域のつながりを特に重視する必要があろう。
 わたしたちの〝里づくり〟の中にこれら施設のもつ機能をいかに包括し得るか……わたしたちは何はともあれ行動をおこさなくてはならない。

施設の活用

□公共施設
○各地域単位に見学会を計画し一人でも多くの町民に施設を知ってもらう。
○各施設と町の共催による各種行事の促進をはかる。
○各施設を拠点とした婦人対象の読書指導の場をつくる。
○各施設において催される講座講演等を広く町民に知らせるとともに参加を求める。
□地域集会所及び寺院等
○農村地帯における集会所を基点とした活動を推進する。
○地域集会所ごとにコミュニティ機能の整備をはかる。
○集会所に民具展示場、児童館等の附帯設備を設ける。
○寺院及び神社等を集会所的に使用し、説教、講話等の場をつくる。
□環境整備
○ふるさと歩道、関東遊歩道を結んだ拠点に文化的活動を附した宿泊施設をつくる。
○古い民家の移築保存
○学校施設の開放をおこなう、(運動場・音楽室等)
○児童公園をつくる。(子供たちに設計を託す)
○子供の広場をつ【く】る。
○美術館の設置
○総合医療施設の誘致をはかる。
○町北部に山林を主体とした休養施設をつくる。
○町民の健康づくりに資するための社会体育の場づくりの推進(総合運動公園・体育館等)
○整備の整った公民館等の設置
○コミュニケーションの場づくり
○市街化区域の整備とともに公共下水道の設置をはかる

『嵐山町報道』291号 1980年(昭和55)7月20日

里づくり文化構想(その四)

第二章 里づくりへの新たな提言

 わたしたちは、今まで嵐山町の独自性を踏まえて、いくつかの提言を試みた。
 この三つの独自性の何れにもかかわり合いを持つであろうが、さらに大胆に一九八〇年〜二千年を展望して真剣な討論を重ねた。その結果次の結論に到達した。それは、地域それ自体が、住民自らがそのエネルギーを結集して、自らの里づくりに立向かうべきであるということだ。次に掲げる提言が、人間尊重を基調とし国際的視野に立った里づくりに貢献し得ることを祈りたい。

1町の日等の制定
 ・町の木である梅の見直しをおこない、梅の花の咲く頃に町の日を制定する。
 ・町民憲章を制定する。
 ・青少年育成のための表彰制度を設ける。(たとえばバッジ表彰等)
 ・町ぐるみで行う文化行事の開催。
 ・嵐山町の未来像について町民から懸賞募集する。

2姉妹都市の提携
 ・国際姉妹都市として中国の曲阜注1と提携をはかる。
 ・国内の姉妹都市についても設置をはかる。
注1 中国の山東省西南部の都市。周代の魯国の首都。孔子の生地で儒教の発生地として名高い。
 孔子の故宅の跡に壮麗な孔子の廟があり、現在観光都市として整備している。

3町民文化大学の開設

4情報活動
 ・地域性を重視した情報活動のあり方を考える。
 ・無線放送の設置
 ・町の歴史、自然、施設等を収めた映画の制作。

5文化団体の向上
 ・町内文化団体の育成と向上について積極的に援助する。
 ・美術関係運動の推進と各施設に絵画を展示する運動を広める。
 ・婦人会を母体とした学習の場づくり。

6出版活動
 ・嵐山町の新たな文化史編さん
 ・地元に残る昔話を編集し民話集的なものをつくる。
 ・老人の生活の知恵を収録し小冊子をつくる。

7ボランティアの推進
 ・ボランティアの育成及びボランティアリーダーの養成
 ・ボランティア活動の推進とボランティア保険への加入。


第三章 輝かしい文化の里へ =人道の起点・典雅翠嵐の郷=

 以上の「里づくり文化構想」はいわば二十一世紀への輝かしい文化の里づくりプランである。もしこの内容を集約し、嵐山町の未来像として簡潔な表現を与えるとすれば、次のようにいえないだろうか。
 『人道の起点・典雅翠嵐の郷』— 嵐山
 嵐山の独自性という自然・歴史・施設の三つが織りなすイメージには『典雅翠嵐注2の郷』の語がふさわしいのではないだろうか。ここでほしいのは、嵐山町の過去、現在、未来を貫く、独自性の象徴ともいうべき一つの理念である。
 それは文化や里づくりを担うものが人間である限り、そこには崇高で創造的な人間精神の存在を思わざるを得ない。しかし幸いにして、この精神を象徴する名言が嵐山町に存在するのである。それが「人道の起点」という語である。これは、五十年前、当時の有名な儒者小柳通義先生注3が、嵐山町の未来に対し祈りと願いとをこめて吐露されたことばである。この語は嵐山町民が、里づくりの精神を象徴することばとしてふさわしいと考え採択した。
注2 典雅(てんが)とは、文化の香気があって姿かたちが整っていること。
 翠嵐(すいらん)とは、青々とした山の姿の形容。
注3 小柳通義(一八七〇年〜一九四五年)東京生れ。重忠公の碑文を作った人で儒教宝典等の著書がある。
 さてこの「里づくり文化構想」を答申するにあたり、次のことを要望する。
1町民の中から、里づくり文化運動が自発的に展開するよう、この構想の浸透をはかること。
2本懇談会の延長ともいうべき「里づくり推進懇談会」(仮称)のごときものを将来ににわたって設けること。
3町職員に対して、この構想の趣旨を浸透させ、町民に先んじて、里づくり構想へのビジョンをもつようはかること。
4町当局は、この構想の実現をはかるため、年次計画を立て、逐次予算化してゆくこと。
 最後にわたしたちは、一日でも早く町民の間に「里づくり文化構想」の趣旨が浸透し、「里づくり」という語が定着し、この構想のもつ「壮大なロマン」を追求しつつ自発的な活動が生れることを希求する。町当局もこの動きと相表裏し、この構想実現のため、行政のあらゆる面から推進をはかるよう切望する。文化行政というが、結局これに尽きるといえるであろう。
―おわり―  

『嵐山町報道』292号 1980年(昭和55)9月25日
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