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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

明治時代

明治の身分解放令

解放令の発布

 江戸幕府を倒して成立した明治政府は、社会制度の近代化を急がなければならなかった。政府は四民平等の方針を打ち出し、封建的な身分制度を廃止していったが、現実には皇族・華族・士族・卒・祠官(神官)・僧侶・平民という新しい身分をつくり出した。そこでは農・工・商の人たちは平民となったが、江戸時代の被差別身分の人たちはそのままであった。
 幕末から明治の初年にかけて、被差別身分の人たちから解放を求める声が高まっていた。東京府や大阪府、あるいは土佐の大江卓(おおえたく)などは意見書を出して身分制度の改革を提起した。明治政府のなかでもこの制度を残しておくことは問題であると議論されるようになった。とくに大蔵省の中では、公家(くげ)・大名・神社仏閣・農商の宅地などにも免税地があるのでこれを廃止して、近代国家として国民全体に課税することが検討され始めた。賤民身分の人たちの宅地が免税地の場合もあった。しかし、それを廃止するためには賤民という身分制度を廃止する必要があった。政府は1871年(明治4)8月28日に太政官布告を発布して賤民制度を廃止した。内容は、「穢多非人などの呼び方を廃止したので、これからは身分職業とも平民と同様にする」というもので、江戸時代から続いた差別的な身分制度を廃止したのである。この布告は賤民廃止令、一般的には解放令といわれている。これは各府県庁を通して県内の宿場や村々に伝えられた。

嵐山地域での解放令伝達

 嵐山地域には韮山県庁(にらやまけんちょう)から解放令が伝達された。当時はまだ現在の形の埼玉県は成立していない。埼玉の地域はいくつもの県にわかれていた。嵐山地域は韮山県*1に属していた。当時の吉田村の名主藤野彦右衛門の「明治二年己巳年 御用向色々手控帳」には、解放令伝達の文が記されている。

*1:韮山県(にらやまけん)…江戸時代の韮山代官所の支配地域を引き継いで成立し、武蔵・相模(さがみ)・伊豆にまたがっていた。県庁所在地は静岡県田方郡韮山町。1871年(明治4)の廃藩置県の直後に韮山県は消滅。

穢多非人等之称被廃候条自今身分
職業共平民同様たる邊き事
 辛未八月   太政官   
右之通被仰出候条村内居住之穢多非
人江其方共より申通戸毎連署請書取
之来ル十五日限リ無相違可差出候此
廻章至急順達留り村より可相返者也
東京出張
辛未九月 韮山県庁 御印
  武州比企郡上横田村 辛未九月八日拝見
       下横田村   仝
        高谷村   仝
        吉田村   仝
         右【上】名主 組頭

 これによると、嵐山地域の場合は韮山県庁押印の解放令伝達文が東京出張所(韮山県庁の出張所)から廻状の形で村送りされて名主と組頭に伝えられ、名主が穢多非人に伝えて戸毎に署名し請書を取ることを命じられていたと思われる。名主がこの廻状を見たのが辛未(明治4年)9月8日で、太政官布告の10日後のことである。浦和県庁が村々に伝えた文書も同じ9月8日の日付である。
 なおこの解放令の発布と時を同じくして、次の太政官布告も伝達された。

平民襠高袴割羽織着用可為勝手事
 辛未八月      太政官
右之通被仰出候条得其意区内村々江
者其方共より可通達者也
東京出張
 辛未九月 韮山県庁 印
       武州比企郡
        中爪村役人

 これは、平民が武士用の襠(まち)の入った高袴(たかはかま)と割羽織(わりばおり)を自由に着てよろしいと認めた布告である。1870年(明治3)には、武士に紛らわしい服装としてお触れを出して禁じていたものを、政府自らが1871年(明治4)8月には着用の自由を打ち出したのである。解放令の発布とともに服装の自由化も進められていることは注目される。この太政官のお触れは、先の吉田村名主の「御用向色々手控帳」のなかに解放令伝達の文書と並んで記されている。

解放令は差別とたたかうよりどころに

 解放令は、江戸時代の差別的な賤民制度を廃止し、法的な平等を規定したものとして重要である。しかし解放令の発布によってそれまでの番人の仕事、治安維持の仕事などがなくなり、それまで村の仕事をする代償として認められていた斃牛馬(へいぎゅうば)処理の権利も、解放令発布の直前に出された「斃牛馬勝手処理令」(明治4年3月19日)によって失われた。したがって解放令によって法的平等は実現しても、生活はかえって悪化したのである。当時は、解放令は出されても差別をなくすための具体的な施策はなされなかった。しかし、法的な平等を規定したこの解放令は、明治・大正・昭和前期の時代において部落差別とたたかう場合のよりどころになったのである。

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