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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第2節:新編武蔵風土記稿

比企郡 (一)

都幾川 郡ノ中程ヲ流ル。水源ハ秩父郡大野村ノ山間ヨリ出、郡中慈光山ノ渓澗(けいかん)ヨリ湧出スル清水ト合シテ一条ノ川トナル。慈光山ヲ都幾山ト号ス故ニ此川ヲ都幾川ト号スト云フ。又郡西別ニ槻川アリテ下流、コノ川ニ合ス。トキトツキトハ音モ近ク似テマギレヤスシ。『源平盛衰記』ニ木曾越後ヘ退キシニ頼朝勝ニ乗ニ及ズトテ武蔵国月田川ノ端(はし)アヲトリ野ニ陣取トアリ。今下青鳥村ハ郡ノ中央ニテ則コノ川槻川ト合セシヨリ遙二下流ノ崖ニアリ。サレバ彼記ニ月田川ト記(しる)セシハ此川ヲサスコト明ラカナリ。田ノ字モシ衍字(えんじ)ナランニモ当時下流マデツキ川と号セシナラン。サレド今ハ槻川ト合テヨリ下流ハスベテ都幾川ト号シテ槻川トハイハザルナリ。此水流都幾山ノ下ヨリ艮(うしとら)ヘ流レ鎌形村ノ北ニテ槻川トアヒ、東流シテ又巽(たつみ)二ヲレ上井草村ノ西ニテ越辺川ニ入ル。川路七里バカリ上流ハ山間ナリ。下流平地ノ間ニハ堤ヲ築キて水溢(すいいつ)ニソナフ。河原ノ濶(ひろさ)二百間水清浅ナレバ所々ニ歩行(かち)渡スル所アリ。冬春ノ間バカリ橋ヲ架シテ往来ヲ通ス。

槻川 西ノ方ニアリ。水原ハ秩父郡白石村ノ山間ヨリ出、郡中腰越村ニイリ東ノ方ヘ屈曲シテ小川村ニ至ル。此所ニテ兜川ト云フ小流ト合シテ一トナリ、鎌形村ノ北ニ至リテ都幾川ニ入ル。水源ヨリコヽニ至リテ三里バカリ、川幅大抵五十間。

市ノ川 郡ノ中央ヨリ北ニヨリテアリ。水源ハ男衾郡無礼村溜井ノ余水、巽(たつみ)二流レ郡中高見村ニ入リ、是ヨリ大抵東流シ松山町ノ北ニ至リテ北ニヲレ、又東ニ曲リテ横見郡トノ郡界ヲヘテ鳥羽井新田ノ北ニ至リ猶東流ス。コヽヨリハ泥川トナリテイヨイヨ郡界ニソヒ、小見野郷十ケ村ノ地ニ至リテ荒川ニ入ル川幅十間程。此川昔ハ鳥羽井新田ノ北ヨリ艮(うしとら)ノ方、横見郡ノ地ヘ流レシヲ享保八年(1723)井沢惣兵衛鈞命(きんめい)ヲ受ケテ、今ノゴトク郡界ヘ新川ヲ穿(うが)チシヨリ水流カハリシト云フ。故ニ今鳥羽井新田ヨリ下流ハ新市ノ川ト呼ベリ。ソノ辺ハ霖雨(ながあめ)スレバ水溢(すいいつ)スル故堤ヲ築キテ是ニソナフ。此川スベテ屈曲多シ。大凡(おおよそ)九十九曲ニ及ブ。コレヲ延(のべ)てハカレバ川路二十里ニ及ブト云フ。

滑川 水源ハ吉田・古里ノ二村ノ悪水流レ、古里村ニテ一条トナリ。三里バカリ流レテ、松山町ノ北ニテ市ノ川ニ入。スベテ砂利川ナリ。

『新編武蔵風土記稿第16巻』「比企郡(一)総説」から抜粋 新編武蔵風土記稿刊行会, 1957(昭和32)1月15日
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